蜀主 劉備/Liu Bei, Lord of Shu
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− | + | 三国志演義における主人公。戦闘で活躍した逸話は少ないが、その人望の厚さは有名。[[列聖の武将 関羽/Guan Yu, Sainted Warrior|関羽]]や[[猛将 張飛/Zhang Fei, Fierce Warrior|張飛]]と[[桃園の契り/Peach Garden Oath]]を交わす。 | |
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− | 字を玄徳、タク(涿) | + | 字を玄徳、タク(涿)郡の楼桑村の人。黄巾の乱が起こると関羽、張飛らとともに義勇軍に参加して武名を上げた。関羽、張飛らとは臣と言うよりも兄弟のように接した。彼らの結束のほどは「桃園の契り」という創作がなされるほどであり、正史には彼らの結束の強さが良く見て取れる。 |
常に一緒にいつづけたわけではないが、、公孫サン(瓚)・陶謙・呂布・曹操・袁紹・劉表のもとに次々と従っては、離れていった。(ときに徐州の牧になったり、曹操の下では左将軍の位を戴いた)大乱世において根無し草に近い彼らの生活は、後の蜀勢力において慢性的な人材不足という欠陥を備える事となる。この頃の劉備に天下への志はあったとしても、明確な戦略があったとは思えない。当時は領地がなければ有望な人材を集めるに至らないのが常であった。しかし荊州の劉表の下にいた際、劉備は諸葛亮を迎え入れる。ここから諸葛亮の天下を三分して後の併呑、という大計の実現を目指すようになったと推測される。 | 常に一緒にいつづけたわけではないが、、公孫サン(瓚)・陶謙・呂布・曹操・袁紹・劉表のもとに次々と従っては、離れていった。(ときに徐州の牧になったり、曹操の下では左将軍の位を戴いた)大乱世において根無し草に近い彼らの生活は、後の蜀勢力において慢性的な人材不足という欠陥を備える事となる。この頃の劉備に天下への志はあったとしても、明確な戦略があったとは思えない。当時は領地がなければ有望な人材を集めるに至らないのが常であった。しかし荊州の劉表の下にいた際、劉備は諸葛亮を迎え入れる。ここから諸葛亮の天下を三分して後の併呑、という大計の実現を目指すようになったと推測される。 | ||
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即位後、前々から呉との戦の火種であった荊州において関羽が呉によって捕縛・処刑され、荊州を奪取されるに至り、劉備は激昂して呉へ侵攻するも、夷陵で陸遜に惨敗、諸葛亮に後事を頼み、223年永安と改称した白帝城において病没した。 | 即位後、前々から呉との戦の火種であった荊州において関羽が呉によって捕縛・処刑され、荊州を奪取されるに至り、劉備は激昂して呉へ侵攻するも、夷陵で陸遜に惨敗、諸葛亮に後事を頼み、223年永安と改称した白帝城において病没した。 | ||
− | + | 三国志演義では道徳者の象徴のような聖人君子の人物像として描かれているが、正史においてはまずそのような人物とは採ることはできない。むしろ義侠心あふれるヤクザの親分に近く、「劉邦を髣髴とさせるものがあった」(蜀志先主伝)という一文があるほど。また、身長が高く手を伸ばせば腰の辺りまである、とされる人物像は劉備が戦闘能力にすぐれていた証でもある。事実、孔ユウ(伷)の下にいた頃の太史慈が、居城を囲まれた際に「私(太史慈)が囲みを突破し、劉備殿に助けを求めましょう」と提言し、そのとおり実行した。結果、劉備の奮闘もあって包囲を解いた、という件がある。(呉志太史慈伝)だが個々の戦闘能力は強くとも、必ずしも「戦上手」と云う訳ではなく司令官としては芳しいものは少ない。 | |
現代は三国志演義においての美化されたイメージが強く、正史にある程度基づいてかかれていても、性格は聖人君子のままというパターンが多くある。最近では「乱世にあって人を殺さず」という訳の分からない劉備まで登場しており、彼の本質を見逃しがちな傾向にある。 | 現代は三国志演義においての美化されたイメージが強く、正史にある程度基づいてかかれていても、性格は聖人君子のままというパターンが多くある。最近では「乱世にあって人を殺さず」という訳の分からない劉備まで登場しており、彼の本質を見逃しがちな傾向にある。 |
2010年1月28日 (木) 19:54時点における版
伝説のクリーチャー — 人間(Human) 兵士(Soldier)
馬術(このクリーチャーは、馬術を持たないクリーチャーによってはブロックされない。)
あなたが、名前が《列聖の武将 関羽/Gan Yu, Sainted Warrior》であるパーマネントか、名前が《猛将 張飛/Zhang Fei, Fierce Warrior》であるパーマネントをコントロールしているかぎり、蜀主 劉備は+2/+2の修整を受ける。
三国志演義における主人公。戦闘で活躍した逸話は少ないが、その人望の厚さは有名。関羽や張飛と桃園の契り/Peach Garden Oathを交わす。
カード自体も、演義における劉備らしさを現している。契りを交わした2人のどちらかがいればタフネスが6となり、1対1の戦闘ではまず死ぬことはないだろう。
リミテッドでは修整が期待できなくても、一応採用できるレベルである。 しかしMasters Edition 3の緑は強力なバニラが多いため、重く、サイズに乏しいこれはサイドアウトすることもあるだろう。
- 関羽と張飛の両方が戦場にあっても、受ける修整は+2/+2だけである。
- 2007年9月サブタイプ変更で人間・兵士のクリーチャー・タイプを獲得した。
関連カード
このカードが参照するカード(桃園の契りの関係)
ストーリー
字を玄徳、タク(涿)郡の楼桑村の人。黄巾の乱が起こると関羽、張飛らとともに義勇軍に参加して武名を上げた。関羽、張飛らとは臣と言うよりも兄弟のように接した。彼らの結束のほどは「桃園の契り」という創作がなされるほどであり、正史には彼らの結束の強さが良く見て取れる。
常に一緒にいつづけたわけではないが、、公孫サン(瓚)・陶謙・呂布・曹操・袁紹・劉表のもとに次々と従っては、離れていった。(ときに徐州の牧になったり、曹操の下では左将軍の位を戴いた)大乱世において根無し草に近い彼らの生活は、後の蜀勢力において慢性的な人材不足という欠陥を備える事となる。この頃の劉備に天下への志はあったとしても、明確な戦略があったとは思えない。当時は領地がなければ有望な人材を集めるに至らないのが常であった。しかし荊州の劉表の下にいた際、劉備は諸葛亮を迎え入れる。ここから諸葛亮の天下を三分して後の併呑、という大計の実現を目指すようになったと推測される。
その後「赤壁の戦い」と称される烏林一帯の戦闘において曹操が歴史的な敗北を喫した後、荊州を占拠して徐州以来の領地を得るに至る。さらに蜀(益州)の劉ショウ(璋)が五斗米道の張櫓に怯え、数億銭を積んで劉備を招いたが、彼は水面下で蜀臣の法正・孟達らと通じ、逆に蜀を攻めて支配する。
さらに漢中で曹操を破って、対魏国への足がかりとなる地を手に入れた。曹操が216年に魏王になったことも受けて、219年劉備は漢中王を自称した。220年に曹操の子曹丕が後漢の献帝から帝位の禅譲を受けたとき、劉備の勢力は献帝が殺害されたと誤解し、221年に劉備を漢の皇帝に推戴した。蜀に作られた(自称)漢王朝であるため、後漢(東漢)、前漢(西漢)と区別するため蜀漢とも言う。
即位後、前々から呉との戦の火種であった荊州において関羽が呉によって捕縛・処刑され、荊州を奪取されるに至り、劉備は激昂して呉へ侵攻するも、夷陵で陸遜に惨敗、諸葛亮に後事を頼み、223年永安と改称した白帝城において病没した。
三国志演義では道徳者の象徴のような聖人君子の人物像として描かれているが、正史においてはまずそのような人物とは採ることはできない。むしろ義侠心あふれるヤクザの親分に近く、「劉邦を髣髴とさせるものがあった」(蜀志先主伝)という一文があるほど。また、身長が高く手を伸ばせば腰の辺りまである、とされる人物像は劉備が戦闘能力にすぐれていた証でもある。事実、孔ユウ(伷)の下にいた頃の太史慈が、居城を囲まれた際に「私(太史慈)が囲みを突破し、劉備殿に助けを求めましょう」と提言し、そのとおり実行した。結果、劉備の奮闘もあって包囲を解いた、という件がある。(呉志太史慈伝)だが個々の戦闘能力は強くとも、必ずしも「戦上手」と云う訳ではなく司令官としては芳しいものは少ない。
現代は三国志演義においての美化されたイメージが強く、正史にある程度基づいてかかれていても、性格は聖人君子のままというパターンが多くある。最近では「乱世にあって人を殺さず」という訳の分からない劉備まで登場しており、彼の本質を見逃しがちな傾向にある。